2009年7月16日木曜日

宇都宮戦争遺跡(2009/6/20)

 2009/6/20(土)に実施された宇都宮戦争遺跡の見学のレポートをご紹介します。

 このレポートは、見学に参加した立花組戦争遺跡班所属の2年の大学院生によるものです。
 また同じく参加した東大の方の撮影写真の一部をこちらで公開しております。

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実施日:2009年6月20日(土)
参加者:立花先生、立花ゼミ(5人)、こねこ(立大生1人)、見聞伝(東大生2人) 計9人

 当日は、雨に降られず、そんなに暑くもないと、6月としては天気に恵まれた、フィールドワークに絶好の日でした。また、現地ガイドは、『宇都宮平和祈念館をつくる会』事務局長の大野幹夫さん、『宮ユニオン(宇都宮市民ユニオン)』相談役の田中一紀さんに、ボランティアでやって頂きましたが、なんとお二人の運転とご案内による、自家用車2台を使っての宇都宮戦争遺跡の周回という、天気にも勝る大変恵まれた環境でのフィールドワークとなりました。
*この場を借りて、宇都宮の大野さんと田中さんのお二人には、心から感謝致します。

 当日は、大野さん作成の以下のプログラムに沿って、宇都宮の戦争遺跡を廻りました。

宇都宮市内戦争遺跡研究フィールドワークプログラムの企画と案内事項

▲・・・は車中案内 ◎・・・は下車見学  ※・・・資料有り  ★・・写真有り

10時JR宇都宮駅前集合―挨拶と資料配布及び資料説明
~▲★栃木県庁(戦災をまぬかれた唯一の公共建造物の一部)
~▲★塙田トンネル(旧防空壕跡)
~◎※★八幡山旧陸軍地下司令部跡 (解説、田中)
~▲★師団司令部門
~◎※★県立中央女子高等学校(旧第66連隊)内歩兵第66連隊庖厨棟(通称赤煉瓦倉庫)
~▲護国神社
~▲作新学院(旧陸軍輜重隊・騎兵隊)
~◎※★大谷・戸室山地下工場入口(発動機部品組立工場)(解説、田中)
~12時半:◎※★大谷資料館(地下採掘場跡、地下工場の一部)見学前に昼食、昼食後資料館前で宇都宮の現状と戦時期の宇都宮及び宇都宮の戦災についての講話(大野 約15~20分):資料館内見学(約30分)
~▲★大谷景観公園(地下工場入口)
~◎★大谷平和観音像(解説 大野)
~◎★駒生運動公園(旧陸軍射撃場跡 ほぼ原型保存 解説 田中)
~▲★宇都宮文星芸術大学付属高校(旧陸軍野砲隊)
~▲★宇都宮短大付属高校(旧陸軍兵器廠跡)
~▲★合同庁舎(旧宇都宮師団師団長官舎)~◎松ヶ峰教会(全国最大規模の大谷石建造物、戦災で外壁を残し焼失、戦後再建されたヒロシマ原爆ドーム、長崎浦上天主堂のような宇都宮空襲の記念碑的建造物)(解説 大野)、
~◎旧枝病院門柱(戦災記念日設置 解説 田中)
~JR宇都宮駅(終了は17時予定)

●天候・交通の事情により、コース・時間に変更があります
●昼食予定の資料館には、食堂がありません、前に軽食喫茶がありますが、サンドウイッチかカレーくらいしかありません(飲み物の自販機はあります)。途中コンビニで停車しますので昼食購入される方はそこで準備お願いすることになります。
●必ず雨具はご用意ください
●足場の悪いところもありますので履物は軽いものを(ハイヒールなどは厳禁です)

連絡先:宇都宮市清住3-1-14 弁護士 藤田勝春法律事務所内
宇都宮平和祈念館をつくる会事務局 TEL.028-625-326

 当日は現地集合で、現地ガイドの大野さん、田中さんとも、宇都宮駅改札を出たところで待ち合わせを行い、全員が落ちあった後に、配布された(宇都宮平和祈念館をつくる会作成の)資料にて、大野さんの全体的な説明がありました。
 宇都宮は第14師団があった軍都として有名ですが、資料の下野新聞社の「とちぎ20世紀」にも、「師団設置は県や宇都宮市、市の有志らが一体となった誘致運動の成果だった。1万人以上の兵隊が駐留する師団の経済効果を狙い、商工業者らが懸命に動いた。」とあり、宇都宮は師団設置から終戦までの38年間(1908~1945年)「軍都」の歴史を刻み、今も市の中心の「桜通り」には軍道の名残があり、それがまさに戦争遺跡であるとも言えます。
 1945年7月12日深夜、宇都宮はB29爆撃機による焼夷弾爆撃を受け、市街地の約半分を焼失し多くの犠牲者が出ました。ガイドの大野さんは当時11歳でこの空襲を体験しており、そのことを伝えるのが使命であり、「遺跡を間近に見てもらい、戦争は愚かなもので、二度と起こしてはならないということを知ってもらいたい」という力を込めた語りが深く心に残りました。
 尚、この宇都宮大空襲の記憶を風化させまいと、1985年に市民らによって設立されたのが、今回ガイドをして頂いた、宇都宮平和祈念館建設準備会(現在は「宇都宮平和祈念館をつくる会」)であります。毎年空襲のあった7月12日前後に記録展を開催するほか、5月の第3週には軍事施設や戦争遺跡を巡る「ピース・バス」を運行していますので、HPで見ると大変参考になります。
 まずは、栃木県庁(戦災をまぬがれた唯一の公共建造物)を車窓から眺めながら、八幡山へ向かいます。八幡山旧陸軍地下司令部跡は、地下壕内部崩落により見学ができませんが、外部よりの見学と説明がありました。
 地下司令部は、本土決戦(一億玉砕)を見据え、1945年6月中旬から建設を始め、終戦時未完成であったが、「米軍が進駐してきた時に笑われる、このままでは日本軍の名折れである」と作業が続けられ、すべての穴の貫通を待って作業を中止、部隊が解散となったそうです。その証として、1945年8月17日付けの地下司令部建設作業隊の精勤賞(表彰状)が、資料として残っています。尚、この地下壕の建設作業は、日本人だけで行われたとの事です。
 次に、第14師団司令部跡地(現栃木病院)脇を通って、県立中央女子高等学校に向かいます。
 県立中央女子高等学校には、旧第66連隊当時の赤レンガ造りの建物があり、厨房棟として建築されたものですが、終戦後宇都宮中央女子高の倉庫として使用され、2002年に国の登録文化財に指定され、現在は多目的ホールとして活用しているとの説明がありました。
 次の大谷に向かう前に、護国神社にてトイレ休憩を行いましたが、そこの門の碑文より、宇都宮の第66連隊が南京に行っていることが分かりました。
 それから、旧中島飛行機(株)武蔵製作所(エンジン)の地下工場があった戸室山に行きました。現在は、地元の人もあまり立ち入らないような、廃坑のようなところですが、戸室山地下工場入口には、「海軍隧道」の文字が刻まれており、海軍の部隊が建設したことをかすかに伝えています。外が暑かったのに、地下工場の中は涼しく、そしてプロペラの残骸を見ると、ふと時を越えて立ち止まる、そんな不思議な時空間でした。
 途中、コンビニで昼食の弁当を各自調達し、大谷資料館前のベンチで昼食をとりました。
 昼食後、大野さんから、宇都宮の現状と戦時期の宇都宮及び戦災についての講話がありました。
 大谷資料館の地下採掘場跡は、圧倒的な空間であり、こんなに天井が高く、広い空間が珍しく、15年程前に行ったエジプトのピラミッドに匹敵するほどの感動を覚えました。資料館には、地下工場の写真が展示されており、苦肉の策とはいえ、地下に潜って発動機生産に専心していく、敗戦間近の中島飛行機の作業員の姿が思い浮かび、やるせない思いをしたのは私だけではないでしょう。大谷資料館の近くの大谷公園には、平和観音と慰霊之塔がありました。以前は、この一帯を修学旅行の学生も訪れていたそうですが、地盤陥没事故以来、観光客が少なくなったようです。
 次に、旧陸軍射撃場跡の駒生運動場を訪れましたが、現在は関東財務局管理の国指定湿地として原型保存を行っていました。それから、松ケ峰教会ですが、これは戦災で外壁を残して焼失したため、宇都宮にとっては、広島原爆ドームや長崎浦上天主堂に匹敵する、空襲記念碑的建造物だそうです。その斜め前に戦災で残った大谷石造りの倉庫(公益質屋「旭屋」として使用していた)があり、現在は宇都宮市の倉庫に使っていますが、そこを「宇都宮平和祈念館をつくる会」では、平和祈念館として使用したいと、現在申請を行っているそうです。そして、松ケ峰教会から歩いてすぐのところ(中央公民館の前に、石造りのパルテノン神殿の柱に似た旧枝病院門柱があり、これは「宇都宮平和祈念館をつくる会」が、戦災記念碑として建立したものです。
 最後に、戦時中軍都としてのシンボル的存在で、中心部にあって戦災を免れた木造建造物、下野一の宮の二荒神社に行きましたが、ここは町の中心地であり、神社の向かいに宇都宮名物の餃子会館がありました。そして、この「餃子」が、本当に最後の戦争遺跡となりました。
 なぜなら、この「餃子」こそ、宇都宮の連隊が進駐先の中国満州の地(ハルビンやチチハル)から持ち帰ったものだからです。
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