2009年8月28日金曜日

小笠原村父島戦争遺跡(2009/8/11)

 2009/8/11(火)に、立花ゼミ所属の大学院生が訪問した小笠原村父島の戦跡訪問のレポートをご紹介いたします。

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訪問日:2009年8月11日(火)
訪問者:立花ゼミ戦争遺跡班所属大学院1年生1名

 個人の旅行での小笠原諸島父島訪問に合わせて、父島の戦争遺跡の訪問を行いました。
 ガイドは、現地の戦争遺跡について詳しく、全国戦跡保存ネットワークにも参加をされており、平成14年に発行された行われた小笠原村教育委員会による「小笠原村戦跡調査報告書」の調査にも協力されたマルベリーの吉井信秋さんにお願いいたしました。マルベリーでは、通常父島での山歩きや史跡めぐり、シュノーケリングツアーなどを催行されています。

■島の歴史について
 島の歴史については、小笠原村のHPに簡潔に紹介されています。
 最初の発見者については諸説あるようで、信憑性に疑問は残りますが、江戸時代後期から欧米系の住民が定住を始め、その後江戸幕府・明治政府の領土化政策にそって日本からの移民が増え、国際的に日本の領土として認められました。
 当初は、捕鯨中継基地としての役割強かったようですが、大正昭和初期には果樹や野菜、水産物の生産で栄え、島民数も7000人以上(現在は3000人程度)となっていたそうです。その後太平洋戦争に突入し、末期には強制疎開により、軍属として残った一部の住人を除き、島から民間人の姿は消えました。そして1945年敗戦。
 米軍の統治から1968年の日本への領土返還までは、欧米系の住民と米軍のみが居住する島となっていました。平成20年に返還40周年を迎え、旧島民が帰島するとともに、一般的に新島民とも呼ばれる新たな移住者が増えてきているようです。
 なお、返還時の様子を伺える資料として、衆議院での小笠原復興に関する議論をした際の議事録があります。当時の現地の様子が、生々しく感じられる資料です。
 欧米系の住民の方と、日本からの移民の方との民俗的、文化的な摩擦の問題の有無等については、これまでの訪問で見知った情報の中では、申し上げられることがありません。少なくとも、筆者が20年ほど前から島を観光で訪れ、感じた中では、特に島民の方々の中での、そうしたルーツの違いによる島の中での暮らし方の差異を感じたことはありません。
 確証を持って言えることではありませんが、江戸後期から明治という、比較的近年から移住が始まり、しかも内地から非常に遠く独立した暮らしを営む離島ということもあり、欧米系の方にとっても、日本からの移民の方にとっても、元々先祖代々が永きに渡って住んできたというものでなく、誰にとってもある意味での「新天地」であったということが、民族的・文化的な摩擦を大きくせず、調和する方向に働いたのではないかという見方もできるようです。

■軍の配備等に関する経緯について
 大まかの経緯については、マルベリーの戦跡資料のページにて確認することができます。
 映画の「硫黄島からの手紙」に登場する硫黄島の守備隊は、栗林中将を司令官とする小笠原兵団でしたが、父島の守備隊についても、小笠原兵団の一部でした。
 サイパン陥落後、サイパンからの本土爆撃の中継点であり、しかも飛行場の拡大設営が可能な硫黄島の戦略的重要性が増したために、小笠原兵団の司令部自体が、父島から硫黄島に移動したという形になります。
 硫黄島の日本軍の戦略について、映画の中でも描かれておりましたが、栗林中将の、水際でなく島内に敵を引き込んでから、壕を利用して、できるだけ長く徹底抗戦を行うという戦略が、父島の壕を中心とした戦跡の様子からも見ることができます。

■父島・母島での戦闘について
 サイパン陥落後の次の重大な戦略拠点が硫黄島であったわけですが、硫黄島の陥落によって、本土爆撃のための中間地点に飛行場のある拠点を得た米軍にとっては、父島・母島は、改めて大きな犠牲を払ってまで上陸占拠をする必要がなくなったそうです。
 少ない戦力で篭る形となった父島・母島は、米軍からの度重なる空襲を受けることになり、数百人以上の犠牲者を出したそうですが、終戦まで上陸作戦を受けることはありませんでした。

■訪問した戦跡について
 訪問した戦跡の写真については、こちらをご覧ください。
2009小笠原戦争遺跡訪問

 写真の掲載順に訪問地となりますが、その概要は以下の通りです。
●夜明山陸軍・海軍壕等
 父島中央部にある山であり、通信所や、沖合いをゆく観戦を砲撃するための砲を配置した壕や、武器弾薬庫など、陸軍・海軍ともに陣地を設けた場所になります。
 ここで壕に配置された砲も、栗林中将の防衛戦略によって、元々海岸線で上陸阻止のために配置されていたものを、上陸後の徹底抗戦のために、山の上の壕に配置しなおしたものが多いそうです。
 高射砲、高角砲といった本来、飛行機を狙うための砲も、壕の中で、水平線上を狙うように設置されていました。
●洲崎飛行場跡
 現在は、全くその痕跡を見ることができませんが、500メートルほどのごく短い滑走路を持つ飛行場がありました。その後、何年か前まで、その切り開かれた平地を利用して、内地からの出張での自動車教習コースがあったそうで、今でもその痕跡が見られますが、近年はそれも行われず、草叢の中に半ば埋没しておりました。
●小港海軍壕
 入り江の一つである小港海岸を囲む岩山に掘られた海軍の壕の跡です。
 十菱先生のお話にもありましたが、海軍の壕については、全てではないものの、壕内の外口部分は厚いコンクリートで固められており、陸軍のほぼ掘りっぱなしの壕との違いがあるようでした。
 ただし、かなり大きな玉石を使った粗悪なコンクリートであり、崩落が進みつつあります。
 ガイドの吉井さん曰く、陸軍に比べて、大きな輸送力を持つ海軍では、より物資が豊富であり、壕の内部で利用するコンクリートも陸軍より持っていたのではないかとのことでした。
●小曲珈琲山高角砲
 ほとんど原型をとどめた高角砲が、小高い山の上に放置されています。小笠原の他の戦跡でもそうですが、戦後すぐ米軍統治に入った父島・母島では、日本軍の残したこうした大砲の類が処分されることなく、そのまま放置される形で残っています。日本軍の引き上げの際にも、一部主要部分を爆破して破壊するといった措置はとり、利用はできないようにしたものの、全てを破壊して跡形もなく処分するような余裕は無かったものと思われます。
 また、日本への復帰後も、戦跡の保護事業はもちろん、特に急激な土地開発が島中で進むということが無かったため、そのまま国有地、民有地に関わらず、保存するも、廃棄するもなく、風雨の中で放置されたままということのようです。
●境浦米軍爆撃機残骸
 綺麗な砂浜の入り江で、濱江丸という座礁した輸送船の残骸が、今でも入り江の真ん中に残っています。
 その入り江を囲む崖の中に、米軍急降下爆撃機の残骸があります。写真でも分かるように、鉄製ではないため(ジュラルミン?アルミ?)、全く錆びておらず、とても60年以上前のものには思えません。
●宮の浜特別攻撃隊震洋基地
 ベニヤ板で作ったモーターボートのような小型船に大型のエンジンと船首に爆弾を積んだ特攻兵器の基地です。父島・母島の各入り江に5-6箇所の基地が存在し、それぞれ洞窟を奥深く掘り、艇を保管していたそうです。
 前述のように、父島・母島には、米軍の本格的な侵攻は無かったため、実際に出撃することはなく終戦を迎えることとなったそうです。
●三日月山陸軍砲台跡
 現在父島の玄関となっている二見港のすぐそばの山上にある砲台跡です。ほとんどの戦跡が全く保存もされず放置状態な中で、この三日月山の戦跡のみは、村による保存の手が入れられています。
 湾の入り口を山の上から見張るというための拠点になります。

■訪問を終えて
 ただ一言、これだけ生々しく、そのまま残っている戦跡は、なかなかないだろうと言えます。
 民有地であるにも関わらず、高角砲がそのまま残っているような状態について、何はともあれ問題だろうという基本的なことはさておき、いわゆる司令部跡や弾薬庫跡、飛行機工場跡といった戦跡と違い、実際に戦闘を行った跡が、そのままで残っていることについて、驚くばかりです。
 実際に戦闘が行われていたことを認識し、そしてその後60年以上という歳月が経ったことを実感する意味でも、これらの戦跡を見る価値の大きさは感じました。
 しかし、今後、このまま朽ち果てていくこれらの戦跡を放置することについては、やはり問題があると考えざるを得ないでしょう。
 少なくとも民有地にある戦跡、特に放置された兵器そのものについては、移動ししかるべき場所に保存するということが必要になってくると思われます。
 また、一方で期待したいこととしては、国有地などに存在する壕や兵器の残骸の類については、もし可能であるならば、場所を移すことなく、現状を何とか維持し、人が訪問することが可能なように整備することができれば、戦争遺跡の遺跡としての価値を最大限に活かすことができるのではないかと感じました。
 今後の小笠原村の活動に期待したいと思います。

 最後に、戦跡の訪問を助けていただいたマルベリーの吉井さんに深く御礼申し上げます。