2009年8月28日金曜日

小笠原村父島戦争遺跡(2009/8/11)

 2009/8/11(火)に、立花ゼミ所属の大学院生が訪問した小笠原村父島の戦跡訪問のレポートをご紹介いたします。

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訪問日:2009年8月11日(火)
訪問者:立花ゼミ戦争遺跡班所属大学院1年生1名

 個人の旅行での小笠原諸島父島訪問に合わせて、父島の戦争遺跡の訪問を行いました。
 ガイドは、現地の戦争遺跡について詳しく、全国戦跡保存ネットワークにも参加をされており、平成14年に発行された行われた小笠原村教育委員会による「小笠原村戦跡調査報告書」の調査にも協力されたマルベリーの吉井信秋さんにお願いいたしました。マルベリーでは、通常父島での山歩きや史跡めぐり、シュノーケリングツアーなどを催行されています。

■島の歴史について
 島の歴史については、小笠原村のHPに簡潔に紹介されています。
 最初の発見者については諸説あるようで、信憑性に疑問は残りますが、江戸時代後期から欧米系の住民が定住を始め、その後江戸幕府・明治政府の領土化政策にそって日本からの移民が増え、国際的に日本の領土として認められました。
 当初は、捕鯨中継基地としての役割強かったようですが、大正昭和初期には果樹や野菜、水産物の生産で栄え、島民数も7000人以上(現在は3000人程度)となっていたそうです。その後太平洋戦争に突入し、末期には強制疎開により、軍属として残った一部の住人を除き、島から民間人の姿は消えました。そして1945年敗戦。
 米軍の統治から1968年の日本への領土返還までは、欧米系の住民と米軍のみが居住する島となっていました。平成20年に返還40周年を迎え、旧島民が帰島するとともに、一般的に新島民とも呼ばれる新たな移住者が増えてきているようです。
 なお、返還時の様子を伺える資料として、衆議院での小笠原復興に関する議論をした際の議事録があります。当時の現地の様子が、生々しく感じられる資料です。
 欧米系の住民の方と、日本からの移民の方との民俗的、文化的な摩擦の問題の有無等については、これまでの訪問で見知った情報の中では、申し上げられることがありません。少なくとも、筆者が20年ほど前から島を観光で訪れ、感じた中では、特に島民の方々の中での、そうしたルーツの違いによる島の中での暮らし方の差異を感じたことはありません。
 確証を持って言えることではありませんが、江戸後期から明治という、比較的近年から移住が始まり、しかも内地から非常に遠く独立した暮らしを営む離島ということもあり、欧米系の方にとっても、日本からの移民の方にとっても、元々先祖代々が永きに渡って住んできたというものでなく、誰にとってもある意味での「新天地」であったということが、民族的・文化的な摩擦を大きくせず、調和する方向に働いたのではないかという見方もできるようです。

■軍の配備等に関する経緯について
 大まかの経緯については、マルベリーの戦跡資料のページにて確認することができます。
 映画の「硫黄島からの手紙」に登場する硫黄島の守備隊は、栗林中将を司令官とする小笠原兵団でしたが、父島の守備隊についても、小笠原兵団の一部でした。
 サイパン陥落後、サイパンからの本土爆撃の中継点であり、しかも飛行場の拡大設営が可能な硫黄島の戦略的重要性が増したために、小笠原兵団の司令部自体が、父島から硫黄島に移動したという形になります。
 硫黄島の日本軍の戦略について、映画の中でも描かれておりましたが、栗林中将の、水際でなく島内に敵を引き込んでから、壕を利用して、できるだけ長く徹底抗戦を行うという戦略が、父島の壕を中心とした戦跡の様子からも見ることができます。

■父島・母島での戦闘について
 サイパン陥落後の次の重大な戦略拠点が硫黄島であったわけですが、硫黄島の陥落によって、本土爆撃のための中間地点に飛行場のある拠点を得た米軍にとっては、父島・母島は、改めて大きな犠牲を払ってまで上陸占拠をする必要がなくなったそうです。
 少ない戦力で篭る形となった父島・母島は、米軍からの度重なる空襲を受けることになり、数百人以上の犠牲者を出したそうですが、終戦まで上陸作戦を受けることはありませんでした。

■訪問した戦跡について
 訪問した戦跡の写真については、こちらをご覧ください。
2009小笠原戦争遺跡訪問

 写真の掲載順に訪問地となりますが、その概要は以下の通りです。
●夜明山陸軍・海軍壕等
 父島中央部にある山であり、通信所や、沖合いをゆく観戦を砲撃するための砲を配置した壕や、武器弾薬庫など、陸軍・海軍ともに陣地を設けた場所になります。
 ここで壕に配置された砲も、栗林中将の防衛戦略によって、元々海岸線で上陸阻止のために配置されていたものを、上陸後の徹底抗戦のために、山の上の壕に配置しなおしたものが多いそうです。
 高射砲、高角砲といった本来、飛行機を狙うための砲も、壕の中で、水平線上を狙うように設置されていました。
●洲崎飛行場跡
 現在は、全くその痕跡を見ることができませんが、500メートルほどのごく短い滑走路を持つ飛行場がありました。その後、何年か前まで、その切り開かれた平地を利用して、内地からの出張での自動車教習コースがあったそうで、今でもその痕跡が見られますが、近年はそれも行われず、草叢の中に半ば埋没しておりました。
●小港海軍壕
 入り江の一つである小港海岸を囲む岩山に掘られた海軍の壕の跡です。
 十菱先生のお話にもありましたが、海軍の壕については、全てではないものの、壕内の外口部分は厚いコンクリートで固められており、陸軍のほぼ掘りっぱなしの壕との違いがあるようでした。
 ただし、かなり大きな玉石を使った粗悪なコンクリートであり、崩落が進みつつあります。
 ガイドの吉井さん曰く、陸軍に比べて、大きな輸送力を持つ海軍では、より物資が豊富であり、壕の内部で利用するコンクリートも陸軍より持っていたのではないかとのことでした。
●小曲珈琲山高角砲
 ほとんど原型をとどめた高角砲が、小高い山の上に放置されています。小笠原の他の戦跡でもそうですが、戦後すぐ米軍統治に入った父島・母島では、日本軍の残したこうした大砲の類が処分されることなく、そのまま放置される形で残っています。日本軍の引き上げの際にも、一部主要部分を爆破して破壊するといった措置はとり、利用はできないようにしたものの、全てを破壊して跡形もなく処分するような余裕は無かったものと思われます。
 また、日本への復帰後も、戦跡の保護事業はもちろん、特に急激な土地開発が島中で進むということが無かったため、そのまま国有地、民有地に関わらず、保存するも、廃棄するもなく、風雨の中で放置されたままということのようです。
●境浦米軍爆撃機残骸
 綺麗な砂浜の入り江で、濱江丸という座礁した輸送船の残骸が、今でも入り江の真ん中に残っています。
 その入り江を囲む崖の中に、米軍急降下爆撃機の残骸があります。写真でも分かるように、鉄製ではないため(ジュラルミン?アルミ?)、全く錆びておらず、とても60年以上前のものには思えません。
●宮の浜特別攻撃隊震洋基地
 ベニヤ板で作ったモーターボートのような小型船に大型のエンジンと船首に爆弾を積んだ特攻兵器の基地です。父島・母島の各入り江に5-6箇所の基地が存在し、それぞれ洞窟を奥深く掘り、艇を保管していたそうです。
 前述のように、父島・母島には、米軍の本格的な侵攻は無かったため、実際に出撃することはなく終戦を迎えることとなったそうです。
●三日月山陸軍砲台跡
 現在父島の玄関となっている二見港のすぐそばの山上にある砲台跡です。ほとんどの戦跡が全く保存もされず放置状態な中で、この三日月山の戦跡のみは、村による保存の手が入れられています。
 湾の入り口を山の上から見張るというための拠点になります。

■訪問を終えて
 ただ一言、これだけ生々しく、そのまま残っている戦跡は、なかなかないだろうと言えます。
 民有地であるにも関わらず、高角砲がそのまま残っているような状態について、何はともあれ問題だろうという基本的なことはさておき、いわゆる司令部跡や弾薬庫跡、飛行機工場跡といった戦跡と違い、実際に戦闘を行った跡が、そのままで残っていることについて、驚くばかりです。
 実際に戦闘が行われていたことを認識し、そしてその後60年以上という歳月が経ったことを実感する意味でも、これらの戦跡を見る価値の大きさは感じました。
 しかし、今後、このまま朽ち果てていくこれらの戦跡を放置することについては、やはり問題があると考えざるを得ないでしょう。
 少なくとも民有地にある戦跡、特に放置された兵器そのものについては、移動ししかるべき場所に保存するということが必要になってくると思われます。
 また、一方で期待したいこととしては、国有地などに存在する壕や兵器の残骸の類については、もし可能であるならば、場所を移すことなく、現状を何とか維持し、人が訪問することが可能なように整備することができれば、戦争遺跡の遺跡としての価値を最大限に活かすことができるのではないかと感じました。
 今後の小笠原村の活動に期待したいと思います。

 最後に、戦跡の訪問を助けていただいたマルベリーの吉井さんに深く御礼申し上げます。

2009年7月16日木曜日

宇都宮戦争遺跡(2009/6/20)

 2009/6/20(土)に実施された宇都宮戦争遺跡の見学のレポートをご紹介します。

 このレポートは、見学に参加した立花組戦争遺跡班所属の2年の大学院生によるものです。
 また同じく参加した東大の方の撮影写真の一部をこちらで公開しております。

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実施日:2009年6月20日(土)
参加者:立花先生、立花ゼミ(5人)、こねこ(立大生1人)、見聞伝(東大生2人) 計9人

 当日は、雨に降られず、そんなに暑くもないと、6月としては天気に恵まれた、フィールドワークに絶好の日でした。また、現地ガイドは、『宇都宮平和祈念館をつくる会』事務局長の大野幹夫さん、『宮ユニオン(宇都宮市民ユニオン)』相談役の田中一紀さんに、ボランティアでやって頂きましたが、なんとお二人の運転とご案内による、自家用車2台を使っての宇都宮戦争遺跡の周回という、天気にも勝る大変恵まれた環境でのフィールドワークとなりました。
*この場を借りて、宇都宮の大野さんと田中さんのお二人には、心から感謝致します。

 当日は、大野さん作成の以下のプログラムに沿って、宇都宮の戦争遺跡を廻りました。

宇都宮市内戦争遺跡研究フィールドワークプログラムの企画と案内事項

▲・・・は車中案内 ◎・・・は下車見学  ※・・・資料有り  ★・・写真有り

10時JR宇都宮駅前集合―挨拶と資料配布及び資料説明
~▲★栃木県庁(戦災をまぬかれた唯一の公共建造物の一部)
~▲★塙田トンネル(旧防空壕跡)
~◎※★八幡山旧陸軍地下司令部跡 (解説、田中)
~▲★師団司令部門
~◎※★県立中央女子高等学校(旧第66連隊)内歩兵第66連隊庖厨棟(通称赤煉瓦倉庫)
~▲護国神社
~▲作新学院(旧陸軍輜重隊・騎兵隊)
~◎※★大谷・戸室山地下工場入口(発動機部品組立工場)(解説、田中)
~12時半:◎※★大谷資料館(地下採掘場跡、地下工場の一部)見学前に昼食、昼食後資料館前で宇都宮の現状と戦時期の宇都宮及び宇都宮の戦災についての講話(大野 約15~20分):資料館内見学(約30分)
~▲★大谷景観公園(地下工場入口)
~◎★大谷平和観音像(解説 大野)
~◎★駒生運動公園(旧陸軍射撃場跡 ほぼ原型保存 解説 田中)
~▲★宇都宮文星芸術大学付属高校(旧陸軍野砲隊)
~▲★宇都宮短大付属高校(旧陸軍兵器廠跡)
~▲★合同庁舎(旧宇都宮師団師団長官舎)~◎松ヶ峰教会(全国最大規模の大谷石建造物、戦災で外壁を残し焼失、戦後再建されたヒロシマ原爆ドーム、長崎浦上天主堂のような宇都宮空襲の記念碑的建造物)(解説 大野)、
~◎旧枝病院門柱(戦災記念日設置 解説 田中)
~JR宇都宮駅(終了は17時予定)

●天候・交通の事情により、コース・時間に変更があります
●昼食予定の資料館には、食堂がありません、前に軽食喫茶がありますが、サンドウイッチかカレーくらいしかありません(飲み物の自販機はあります)。途中コンビニで停車しますので昼食購入される方はそこで準備お願いすることになります。
●必ず雨具はご用意ください
●足場の悪いところもありますので履物は軽いものを(ハイヒールなどは厳禁です)

連絡先:宇都宮市清住3-1-14 弁護士 藤田勝春法律事務所内
宇都宮平和祈念館をつくる会事務局 TEL.028-625-326

 当日は現地集合で、現地ガイドの大野さん、田中さんとも、宇都宮駅改札を出たところで待ち合わせを行い、全員が落ちあった後に、配布された(宇都宮平和祈念館をつくる会作成の)資料にて、大野さんの全体的な説明がありました。
 宇都宮は第14師団があった軍都として有名ですが、資料の下野新聞社の「とちぎ20世紀」にも、「師団設置は県や宇都宮市、市の有志らが一体となった誘致運動の成果だった。1万人以上の兵隊が駐留する師団の経済効果を狙い、商工業者らが懸命に動いた。」とあり、宇都宮は師団設置から終戦までの38年間(1908~1945年)「軍都」の歴史を刻み、今も市の中心の「桜通り」には軍道の名残があり、それがまさに戦争遺跡であるとも言えます。
 1945年7月12日深夜、宇都宮はB29爆撃機による焼夷弾爆撃を受け、市街地の約半分を焼失し多くの犠牲者が出ました。ガイドの大野さんは当時11歳でこの空襲を体験しており、そのことを伝えるのが使命であり、「遺跡を間近に見てもらい、戦争は愚かなもので、二度と起こしてはならないということを知ってもらいたい」という力を込めた語りが深く心に残りました。
 尚、この宇都宮大空襲の記憶を風化させまいと、1985年に市民らによって設立されたのが、今回ガイドをして頂いた、宇都宮平和祈念館建設準備会(現在は「宇都宮平和祈念館をつくる会」)であります。毎年空襲のあった7月12日前後に記録展を開催するほか、5月の第3週には軍事施設や戦争遺跡を巡る「ピース・バス」を運行していますので、HPで見ると大変参考になります。
 まずは、栃木県庁(戦災をまぬがれた唯一の公共建造物)を車窓から眺めながら、八幡山へ向かいます。八幡山旧陸軍地下司令部跡は、地下壕内部崩落により見学ができませんが、外部よりの見学と説明がありました。
 地下司令部は、本土決戦(一億玉砕)を見据え、1945年6月中旬から建設を始め、終戦時未完成であったが、「米軍が進駐してきた時に笑われる、このままでは日本軍の名折れである」と作業が続けられ、すべての穴の貫通を待って作業を中止、部隊が解散となったそうです。その証として、1945年8月17日付けの地下司令部建設作業隊の精勤賞(表彰状)が、資料として残っています。尚、この地下壕の建設作業は、日本人だけで行われたとの事です。
 次に、第14師団司令部跡地(現栃木病院)脇を通って、県立中央女子高等学校に向かいます。
 県立中央女子高等学校には、旧第66連隊当時の赤レンガ造りの建物があり、厨房棟として建築されたものですが、終戦後宇都宮中央女子高の倉庫として使用され、2002年に国の登録文化財に指定され、現在は多目的ホールとして活用しているとの説明がありました。
 次の大谷に向かう前に、護国神社にてトイレ休憩を行いましたが、そこの門の碑文より、宇都宮の第66連隊が南京に行っていることが分かりました。
 それから、旧中島飛行機(株)武蔵製作所(エンジン)の地下工場があった戸室山に行きました。現在は、地元の人もあまり立ち入らないような、廃坑のようなところですが、戸室山地下工場入口には、「海軍隧道」の文字が刻まれており、海軍の部隊が建設したことをかすかに伝えています。外が暑かったのに、地下工場の中は涼しく、そしてプロペラの残骸を見ると、ふと時を越えて立ち止まる、そんな不思議な時空間でした。
 途中、コンビニで昼食の弁当を各自調達し、大谷資料館前のベンチで昼食をとりました。
 昼食後、大野さんから、宇都宮の現状と戦時期の宇都宮及び戦災についての講話がありました。
 大谷資料館の地下採掘場跡は、圧倒的な空間であり、こんなに天井が高く、広い空間が珍しく、15年程前に行ったエジプトのピラミッドに匹敵するほどの感動を覚えました。資料館には、地下工場の写真が展示されており、苦肉の策とはいえ、地下に潜って発動機生産に専心していく、敗戦間近の中島飛行機の作業員の姿が思い浮かび、やるせない思いをしたのは私だけではないでしょう。大谷資料館の近くの大谷公園には、平和観音と慰霊之塔がありました。以前は、この一帯を修学旅行の学生も訪れていたそうですが、地盤陥没事故以来、観光客が少なくなったようです。
 次に、旧陸軍射撃場跡の駒生運動場を訪れましたが、現在は関東財務局管理の国指定湿地として原型保存を行っていました。それから、松ケ峰教会ですが、これは戦災で外壁を残して焼失したため、宇都宮にとっては、広島原爆ドームや長崎浦上天主堂に匹敵する、空襲記念碑的建造物だそうです。その斜め前に戦災で残った大谷石造りの倉庫(公益質屋「旭屋」として使用していた)があり、現在は宇都宮市の倉庫に使っていますが、そこを「宇都宮平和祈念館をつくる会」では、平和祈念館として使用したいと、現在申請を行っているそうです。そして、松ケ峰教会から歩いてすぐのところ(中央公民館の前に、石造りのパルテノン神殿の柱に似た旧枝病院門柱があり、これは「宇都宮平和祈念館をつくる会」が、戦災記念碑として建立したものです。
 最後に、戦時中軍都としてのシンボル的存在で、中心部にあって戦災を免れた木造建造物、下野一の宮の二荒神社に行きましたが、ここは町の中心地であり、神社の向かいに宇都宮名物の餃子会館がありました。そして、この「餃子」が、本当に最後の戦争遺跡となりました。
 なぜなら、この「餃子」こそ、宇都宮の連隊が進駐先の中国満州の地(ハルビンやチチハル)から持ち帰ったものだからです。
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2009年6月26日金曜日

館山海軍航空隊赤山地下壕(2009/3/20)

 2009/3/20(金)に実施された館山海軍航空隊赤山地下壕の見学のレポートをご紹介します。

 このレポートは、見学に参加した立花組戦争遺跡班所属の2年の大学院生によるものです。
 また、同じ見学会に参加された立教セカンドステージ大学の学生さんによるレポートもこちらにありますので、あわせてご参照ください。→こちら

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 館山の戦争遺跡を見学してきました。
 後述するNPO法人安房文化遺産フォーラムの愛沢氏と偶然出会い、いろいろ資料をいただきました。

日時:3月20日(金)春分の日(曇り・小雨) 正午現地集合~19時現地解散
参加者:6名
見学コース:
米占領軍初上陸地点~館山海軍航空隊赤山地下壕~戦闘機用掩体壕~かにた婦人のむら・従軍慰安婦碑~本土決戦抵抗拠点128高地"戦闘指揮所"・"作戦室"地下壕~小高資料館(現NPO事務所)



 館山は関東大震災で最も隆起が激しく98%の家屋が倒壊したところで、その後海岸線が前進。
昭和初期、すぐ先の沖合にあった小島までの埋め立てを行い、空母を想定して強い西風に向かった短距離の滑走路を持つ館山海軍航空隊をここに開設している。
 館山の地形は平野が少なく、小高い山が海岸に迫っていて、真珠湾の地形に似ているといわれ、開戦前には背後の山から低空で航空隊基地を敵地に見立てて激しい訓練を重ねたところである。

 敗戦後は厚木に先駆けた米軍の上陸地点で、4日間軍政が布かれたらしい(米軍は否定)。上陸地点は航空隊の滑走路(海岸すぐそば)である。

 赤山地下壕は現在市の管理で公開されており、東京からバスを仕立てた30名ほどの戦争遺跡見学グループも来ていた。他にも個別に見学者がいたりとなかなか盛況だ。常時2人の受付がいる。

 壕の掘削時期は明らかではないが、基地南端からは5分程度の距離にあり、司令部・医療施設・兵器・燃料貯蔵所などの待避壕として掘られたらしい。つるはしの跡が生々しく残っているが壕の断面は大きく(高さ2.5mほど)、延長距離も約2kmある。

 見学の順序では後になるが、「正式」な戦闘指揮所(壕)は更に20分ほど南に行った一二八高地にあり、こちらの空間も大きく、壁天井はコンクリートできれいに均され、通路から別れた房の入り口には今でも「戦闘指揮所」「作戦室」の看板がレリーフとして揮毫の書家の名前も鮮やかに残っている。また3mほどの高さの通路の天井には見事な龍のレリーフもあり、戦争真っ只中での「余裕」まで感じさせる。将官クラスに趣味人がいたのであろうか。

 戦闘機用掩体壕は畑の中にあり、現在は農家の倉庫代わりに使用されているが思ったより小さいものだ。
従軍慰安婦碑は一二八高地頂上付近にあり、前述の戦闘指揮所の上にあたる。この高地は「かにた婦人のむら」の所有地で、(断りを入れたが建物内に人影がなかったため)無断でうろうろしているところをNPO法人安房文化遺産フォーラムの愛沢氏と出会って、このむらの経緯や館山の歴史・文化全般のお話しとともに、教会、碑、戦闘指揮所(壕)の個別案内をしていただいた。

 このむらは売春禁止法後の女性たちの厚生施設として、世界中からの募金で、払い下げられた国有地に自立した生活が送れる施設を建設して開設され、現在も自活生活が営まれている。その中に元慰安婦だったと名乗りを上げた女性(既に故人)がいて、支援者などの手で存命中に元従軍慰安婦のための碑が建てられるにいたっている。

 敷地内にある教会はこぢんまりとした作りだが、山道と同様すべてがここにいる女性たちの手で建設されたという。祭壇の下にある地下室にはここで亡くなって引き取り手のいない女性たちの遺骨や、生涯をこの女性たちのために捧げた深津文雄牧師の霊が祭られている。この施設には某大女優の母君も蔭で支援されたとのことであった。

 その後、愛沢さんのご厚意でNPO事務所まで案内していただき、活動の内容や館山のことをいろいろ伺った。事務所は館山出身の政治家小高熹郎(おだかしろう)が使用していた大正期の2階建て木造の建物で、旧古川銀行(現千葉銀行)鴨川支店が統廃合時に不要になって移築したもの。大きな金庫も付いている。

 該NPOの活動は戦争遺跡の紹介のみに止まらず、中世の南総里見家の歴史から、各地に縁のある文化人の発掘など幅広く、館山のまちづくりに大きく貢献している。その一端は立花先生宛にと寄贈していただいた資料の目録でご推察下さい。

 今回は図らずも愛沢さんと出会い、館山の講義を受けながら見学することができ、地理・歴史・文化的な知識として大きな収穫を得ることができた。同NPOはボランティアとして館山を案内をされているので、行かれる方は事前に連絡を取ることをおすすめします(資料付きで一人1,500円)。その場合午前中に講義をして午後現地見学となるので前日より乗り込む方がいいでしょう。近くには温泉もあります。

頂いた資料
「あわ・がいど1 戦争遺跡」(戦争関連施設の解説)
「あわ・がいど2 房総里実氏」(里見八犬伝で有名な里実氏の歴史と各地の城跡案内)
「あわ・がいど3 海とともに生きるまち」(館山の歴史的人物や施設をウォーキングを通して楽しみながら案内)
「あわ・がいど4 安房古道を歩く」(千葉県南部の古道めぐりと各地の歴史的遺跡案内)
「小谷源之助 太平洋にかかる橋~アワビがむすぶ南房総・モントレー民間交流史」
(およそ100年前にモントレーに行ってアワビ取りの事業を興し、成功した人)
「足もとの地域から世界を見る 授業づくりから地域づくりへ」愛沢伸雄論文集
(元高校教師だった愛沢氏の様々な機関誌等に出稿した論文集)
「第8回戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会報告集」2004年8月
その他に地図など
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2009年6月10日水曜日

2008年度後期活動リスト

立花組戦争遺跡研究班の2008年度後期の活動内容の一覧をご紹介します。

各内容について、レポート・報告書のあるものについては、準備が整い次第、個別に内容をアップして、記録を残していきます。
また、今後の活動については、その都度、早めにアップしていく予定です。

2008/12/7 公開講演会
2008/12/9 長谷川順一さんのゲストスピーチ
2008/12/14 靖国神社遊就館見学
2009/1/11 浅川地下壕
2009/1/24 日吉地下壕
2009/3/20 館山海軍航空隊赤山地下壕
      見学レポートはこちら

2009年6月5日金曜日

はじめまして

立教立花ゼミ戦争遺跡班M1のK.Miuです。
研究班のブログ管理担当を務めます。

この投稿は、個人として投稿するのに使うアカウントのテストを兼ねています。

研究班全体としての発信情報や、合同でのフィールドワークのレポートは、研究班としての投稿を行い、研究班の個人個人からの情報発信は、個人のアカウントから投稿するようにします。
投稿するためには、Googleアカウント(無料)を作る必要があります。
Googleアカウントができたら、そのメールアドレス宛に招待メールを送信し、承諾の手続きをしてもらうことで、個人としてもこのブログに投稿が可能になります。

この形であれば、研究班の各メンバーも比較的自由に書き込みができますね。

2009年6月4日木曜日

はじめに

このブログは、立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科「立花ゼミ」所属の大学院生による「戦争遺跡研究班」の情報発信ページです。
研究の主旨は、以下の通りです。

戦争遺跡と戦争資料は、1.近代史研究・戦争遺跡考古学研究の資料、2.歴史教育や生涯学習の教材、3.平和学習の物証、語り部であると考えます。
そして、その研究の目的は、以下の通りです。
・戦争を身近に追体験することによって、戦争認識を深めさせる
・埋もれている戦争遺跡を掘り起こし、正しい歴史認識に迫る
・戦争遺跡から学んだことを語り合うことによって、戦争認識を深める
・平和を創造する道につながる、平和のメッセージを発信する
・戦争の歴史を学び、平和の大切さを考えたい
・戦争の時代を繰り返すことないように、戦争遺跡から学び、戦争の実態を知らせたい

研究班は、不定期に、全国各地の戦争遺跡や、それに関する物品を保存する資料館等を訪問し、その存在意義や、課題について検討し、このページにレポートをあげることで、世の中にメッセージを発信していきます。

それに先立って、まずは戦争遺跡についての簡単な定義と、世の中での戦争遺跡の保存運動、研究の状況を簡単にご紹介いたします。

<戦争遺跡の定義>
戦争遺跡(戦跡)とは、「近代日本の侵略戦争とその遂行過程で、戦闘や事件の加害・被害・反戦抵抗に関わって国内国外で形成され、かつ現在に残された構造物・遺構や跡地のこと」
※戦争遺跡保存全国ネットワーク編著『日本の戦争遺跡』から

War-Related-Sites、戦争関連の遺跡
日本の戦争遺跡とは、近代軍制が始まった明治初期から昭和前期のアジア太平洋戦争の終結までが時代の範囲である。さらに考古学的な遺跡以外に、地上文化財・建築物・土木構造物や歴史上の跡地までを含め、広く戦争遺跡と称する。
1894(明治27)~95年 日清戦争
1904(明治37)~05年 日露戦争
1914(大正3)~18年 第一次世界大戦
1931(昭和6)年 満州事変勃発、15年戦争へ
1937年 中国との全面戦争
1941年 アジア太平洋戦争開戦
1945年8月14日 御前会議でポツダム宣言受諾決議
1945年8月15日 終戦

<文化財としての戦争遺跡>
文化庁の近代遺跡区分:第九分野 政治、軍事に関する遺跡
指定文化財・登録文化財となった戦争遺跡は96件

<戦跡保存運動の歩み>
1960年代 原爆ドームの保存運動、戦時体験記記録運動(全国に広がる)
1977年 沖縄を考える会結成、5月「沖縄戦戦争遺跡・遺物の保存」を要請
1990年 「南風原陸軍病院」を戦争文化財として(町条例で)保護
1992年 1フィート運動会、「第32軍司令部壕の保存」を那覇市に要請
1994年 沖縄平和ネットワーク、「糸数壕の保存整備」を玉城村に要請
1995年 沖縄平和ネットワーク、「戦争遺跡・遺物の保存と活用」を沖縄県に要請
1997年 〃、「戦争遺跡保存と平和教育活用のための具体的調査決議」を県教育長へ送付
1997年7月 松代で「戦争遺跡保存全国ネットワーク」結成(22団体、100人余り)